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イメージ みちひろ教会の建設地は縄文時代から中世にいたる複合遺跡である神並遺跡の一角にあります。平成2年4月24日の試掘調査でも土器片や古墳横穴式石室などが発掘されています。平成2年5月26日に橿原考古学研究所員(泉尾高校教論神戸大学講師)堀田啓一先生にお願いして、 神並遺跡及びその周辺の考古学的状況について語っていただきました。
橿原考古学研究所員 堀田啓一先生のお話より
(平成2年 当時:泉尾高校教諭、神戸大学講師 現在:高野山大学教授)
みちひろ新教会 建築コンセプト集より転載(平成2年発行)

縄文時代の神並遺跡
イメージ 旧石器時代と呼ばれる石製品ばかりを使っていた時代の後、土器を用いる時代がやってきます。それが縄文時代と呼ばれる時代で、今から1万2千年位前から始ります。C15〜C14(放射性炭素)測定法という残留植物質の炭素測定による年代判別法によって、ほぼ正確な年代が判っています。縄文時代の土器で最も古いものは新潟県や九州などで見付かっていますが、神並遺跡で発掘されているものは、それに次ぐ第2段階のものです。

上部が喇叭状で下部が乳房状の「尖底(せんてい)土器」と呼ばれるもので、押形文(おしがたもん)とよばれる紋様がついています。近畿でもこのタイプの土器が出土するのは数箇所しかなく、非常に貴重なものです(ただし、発掘されているのは教会敷地よりずっと西側で教会は神並遺跡の東の端に在るため出土の可能性は少ない)。このころは「縄文時代早期」とよばれています。その時代は大阪湾の海水が生駒山麓付近まで来ていました。しかし、海が近くであるにもかかわらず、当時の人々は野や山を駆け巡り、狩猟を主として生活していたようで、投げ槍の先(有舌尖頭器)や石匙・スクレーパー(共に石製の獣の解体具)などが多数出土しています。

次の時代である「縄文前期」になると、遺跡の数が減少し(遺跡の規模は大きくなる)、次の「中期」になるとかなり少なくなります(自然環境の悪化が原因という説も)。そして「後期」になると、また標高18mを中心として遺跡数が非常に多くなってきます(鮭との関係、貝を食べる関係か。中期には岡山・広島辺りの(瀬戸内文化の)様式の土器がみられ、後期には瀬戸内様式が入ってきています。この頃には広範囲な地方の人々との交流があったようです。

イメージ 「晩期」の遺跡は目白押しで、近くの日下貝塚では、この時代の何体もの人骨が発見されています。また、南のほうにある縄手、四条町では、「土偶」(土で作られた人間形の像)が出土していいます。「土偶」の作成目的ははっきりとはわかっていませんが、最近では、子供が生まれたとき魂を封じ込めておき、死んだときにその一部を欠いて魂を抜く「人形(ひとがた)」として作られたものだという説も有力となっています。神並遺跡では日本で一番古い土偶(縄文早期)が見付かっています。

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