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2012年7月31日
110年の心「親神様へのバトンタッチ」    〜わが計らいから神計らいへ 神代時代へ〜(2012・4・15 教会創立110年記念 天地金乃神大祭 教会長挨拶・教話)
 皆さん 道広教会創立110年記念の天地金乃神様のご大祭おめでとうございます。

 この記念のご大祭をお迎えさせて頂いて、色々と思わせて頂くことが多いのですが、100年祭の時には、気づかなかった色々の思い、それは親神様がどういう思いで私どもに、特にこの私に強い思いを掛けておられたに違いないことが良くわかります。やっぱりこの10年という年月をもってみると色々なことが、気づかされることが非常に多いなあということを思わせて頂きます。

 自分の人生におきましても、非常に大きな影響を与えてくださった先生が何人もおられますが、特に私にとっては信心の師匠と言えば良いのか、その信心そのもの姿勢と言うかそれには、もう亡くなられましたが、私の家内のお父様であります九州の先の雑餉教会長の山崎政穂先生。

 非常に信心の姿勢としてですね、神様に向かうと言うことは、こういうことか、一番の違いは、先ず教えと言うことよりも、何があっても、一つ一つ親神様にお伺いされるという、これがお取次ということは、こういうことかと、丁重に難儀な問題のその原因とするところをずーと遡(さかのぼ)って、親神様にお伺いし、お尋ねしされながら、ここが大事なところですが、この私が今出来ることをもってどうすれば良いかを教えて下さるということを、それも何度も何度も教えて下さった。そのようなことがずーと続いておりました。神様へのお伺いもご神前だけでなく、お茶を一緒に頂いて会話しているその場が、即神様への神聖な緊張のお伺いの場になりました。それでだんだんと分からされてきました。

 信心の姿勢としては、私も教団の中でずっと育ちながら戦後の教団の信心の中で、何か違うなぁと感じさせて頂いたことは神様にお仕えするというそういう信心と言うものを実感させて頂きまして、そして戦後の教団の信心の流れは、金光大神の信心を持って、しかもそこから沢山の教えを持って、そこから人としての在り方を随分と教えられてきましたが、これはそれで正しかったと思っておりますが、もう一つ何かその前提に神様にお仕えするということによって神様が非常により大きく現れて下さり、ある意味では全教のどこのお広前の神様も同じではないなぁと思わせて頂きました。

 そしてこれは、違っているかもしれませんが、「氏子あっての神、神あっての氏子」とその言葉はよく使われましたが、この氏子あっての神というのは、これは何かなぁという風に思っておりましたが、これは親神様にお仕えして、お仕えすることを通して神様が大きく大きく立ち現われてくださるその中での助かり、ということを思わせて頂きました。

 道広百年祭の頃を思い出しますと、非常に自分も今のこのままではいかんなぁとお広前の現状を見ながら百年と言う大きな年の一月を見ましたら、一月に十数人新しい方が参拝されました。二月には二十人ほど三月も二十人ほどの新しい方、若い方も参拝され、問題はどういう信心をするかということよりも、参拝されてお届けされる中にこれは難しいなという問題が次々におかげになってまいりますから、これは信心としておかげを受けたというよりも、ご縁を頂いて参拝するだけでおかげを頂かれていく、あぁ神様ってすごいなぁと思っておりましたけど、この後十年経ってみると信心が続かない、その時の御礼参拝というのは「あぁこの度は、有難うございましたという意味は、これでさようならという意味がこもっていたなあ」とよく思い出しているのです。

 そうすると、私が三十代の終わり頃の話ですが、今日もお参りされてる泉尾教会長の先々代の三宅歳雄先生に、その頃の青年教師会の先生方と一緒によく行かせてもらって四時間くらい続けて話をさせてもらって、こちらはくたくたに疲れていましたがその時、「みなさん次に待っておられる方がいられますからと私はもうこれで」と去って行かれる、その中でいろいろとご質問をした中で、

 私は「新しい方がお参りされて、おかげを頂いても後が続かない」との話をしましたら、「あんたその信者の人が、おかげを頂いたと参ってきたら、そしたら喜んで神様に、その方と一緒に御礼を申し上げているのではないか?」「はいその通りです。そうです。」というと「あんたかわいそうなことをするなぁ」と言われた。それは心に残りました。最近は、それはどういうことか、今は喜ぶとういことは、信者の方がおかげを頂いてお参りしてこられたら「先生有難うございました。」こう言われて、一緒になってお礼をするが、なにかちょっと我が手柄のようにしておって神様のお働きを自分の物のようにしておるところがあるのかなぁ、もう一つ神様が「あなたの言うことを聞いてお参りしてきた人へおかげを授け、その人は助かったのに、あなたは、その神様のおかげを頂いたことを通して、本来のあるべき神様にお仕えしていくそういう信心の事をどうして教えないのか?私は信者のおかげを頂いたというて参ってきた時には、さぁどうするかと緊張する。あんたは一緒になって喜んでお礼を申しておるけれども、私は信者がおかげを頂いたなぁと言うて御結界にやってきたら、さぁどうするかと思う。」と。

 この話を聞いたときは、三宅先生は、もう七十代を超えておられたと思っていますけど、その時にかわいそうなことをするなぁ、と私一生懸命に頑張って一緒にお礼を申し上げると言った時には、かわいそうなことをするなぁ一瞬、これは私のことかと思ったりしたけども「それはあんたなぁ、折角信心しておかげを頂いてさぁここからという時に、神様を渡さずにそのまま信心なくしてしまうようなあり方して、折角信心してこれからもおかげを頂いていくべき方にかわいそうなことをするなぁと言ったような意味だったことがよくわかりました。、そのことを思うとこの十年前の事もずっと同じで、そのことを思わせて頂いて昨年の二月二十七日のもう教会の戸を全部を閉めて、扉も閉めて、神様に向かわせて頂いて居る時に「この百十年祭をどうお迎えさせて頂いたら」と

 ご祈念中に神様が「バトンタッチ」と言われ、今、教会の駐車場の横断幕にバトンタッチと書かれているのですが、おかげとか神様の願いをバトンタッチということかなぁと思わせて頂いて、次の三月の初め月例祭にお話しさせてもらった。               

 この道広教会は、「嬉しく楽しく有り難く」とか一人一役指一本」「キッズの声が聞こえる教会」「手間ひま掛けて気を入れて」とかいろんなスローガンが出来てきていましたから、その中でしたら「バトンタッチ」というより普段もっと違う話をしているから、もうちょっと少し違う良い言葉があるんじゃないかなぁと大分いろんな人が言われたんですが、なにかちょっと気になって、ひっかかっておりました。

 神様の言われた言葉をちょっと変えるのはおかしいと思いまして、それで説明するときに、神様の願いを受けてそして神様のおかげを受けて皆さんにバトンタッチしていくという当たり障りのないそんな話をしてきました。

 その間にいろんなことが起こってきました。もうこれまで、信心の熱心な人が亡くなったりしたらそのあとの家族は、縁はあるけども信心がまだ伝わっておらんということがよくあるのですが、その頃から逆に、信心が途切れている人が、もう私は実は父は金光教だったのかもしれないけども自分達夫婦でクリスチャンだからもう関係ないと言っていた人が、教会には参っていなかった人が、年祭の時はそれはそれとしてちゃんと自宅で年祭をしてた方が、普段は教会に関係ないと言っていたけど、病気で亡くなる寸前に自分も父と同じように金光教の葬式をして欲しいと言われて来て、そのように変わって来られた人もいるし、父親は亡くなったけれど、その後その娘たちが信心のご縁が続けられるようなことで、逆に縁はあってここから一から信心する動きが、どんどんと生まれ、これは私が動いておらんのに次々と生まれてくるなぁと。    

 このことを思うと、ふと考えながら先月の一年たった三月二十七日の早朝の気づきですが、これは今までの解釈が違っていたなと、これまで神様から自分へのバトンタッチと思っておったけど、よく考えたら自分から神様へのバトンタッチだったなぁとこういう感じだったんです。そしてこれは、よく言われていたのにあんまりピンとこんと私もこの二カ月の間いくつもテレフォン教話の二、三分の教えなのですが、それの教えでしょっちゅう使っていたのが、この四月十三日にも、三月二十七日の朝も使っているのですが、これは経典にも載っております福島義兵という教祖様の直信の方に

「何事も無理をするな、我をだすな、我が計らいをさって神任せにせよ 天地の心になっておかげを受けよ」という教えです。

 ここにも我が計らいをさって神任せにせよ。神様から私に任せなさいとここまで言われているのに、それほどの感じに受けていなかったですね。その教えのちょっと前に「氏子が神として立ててくれなければ、神も立たない・・・」そこのところは神様には、神様としてお仕えしてお仕えしてお仕えすることによってのみ神様のお働きが働いてくること、神様にお仕えしなかったら神様はほうっておいてもこちらがどうであろうと、助けに来て下さる関係にはなって居ないですよと言われておりませんと言われておりました。

 二代金光様の御教え「氏子が神様を疑って心配するから、神の方で安心しておられるのである。氏子安心をして神任せにすれば神が心配して下さるから安心である。」同じようなちょっと変えて、全部安心すること、こんな神様があるんだなぁ、その場でずっと触れながらピンときていなかったなぁ、昨年は一年一カ月たってみれば、私から神様へバトンタッチしてもうお任せします。そうして私は親神様にお任せしてお仕えしてお仕えしてご奉仕するのだなぁ、これが徹底的になったのが最近です。

 今日は十五分ぐらいと言われていたのですが、もう20分を超えました。
もうちょっと、お話させてください。
 
 これは昨年十月二十日の玉水教会の大祭、生神金光大神大祭の時ですが、長年お参りして参列させて頂いていますが、そのお広前でお伺いさせて頂いたことは一度もなかったのですが前の日ですね。もう日が変わっておりましたけども自分ところの道広教会の大祭が終わっておりましたけども生神金光大神大祭についてですが、この生神金光大神様は、大祭をどう思ってられるのかたなぁと皆さんはこんなこと思わないかもしれませんが、私は晩、ふと思ったりするので、この気になった時には、いつもまた着替えてご神前に行ってお願いすることもあるのですが、その時はもう一つ思ったのは、そして金光大神大祭が仕えられて親神様はどんな思いをしておられるのかなぁと思いまして、その時はメモだけ書いて、そして明日の朝に神様にお伺いさせてもらおうかという気持ちになりましたが、ところが、朝起きて神様へのお茶やお米とお神酒をお供えさせて頂き、朝6時半の定時のご祈念をさせて頂いたり、教話をしたりお取次ぎをさせて頂いたり、食事もしたり、気づいたら十時のご祈念の時にも教話とお届けを受けさせて頂いて居ますとふと気づいたら、十二時半ごろに玉水教会からのお迎えの車がきまして、そのまま行かせて頂きまして、玉水教会では副祭主をさせて頂いて、ご祭主の後、副祭主としてたくさんの祭員と一緒に玉串をあげあせて頂くと、あとは終わったわけではないけれど、ちょっとほっとしてお役が済んだ感じで、その時横のご神前は光り輝いておりまして、その時に何を思ったのか、昨晩思ったことを神様にお伺いしたいなと思いまして、生神金光大神ご大祭がこのように仕えられて、金光大神様がどういう風に喜んでおられるのかな、どんな気持ちであられるのかなぁと、金光大神様の親神様への気持ちを、こうしてお装束を着けて横に座って横に神様がおられる親神様に対してのお気持ちはとお聞きしましたら、

 「お仕えしてお仕えしてお仕えしてご奉仕してご奉仕してお仕えしてお仕えして」の繰り返しの言葉しかでてこなくて、
 その時にご自分が一番のお祭りの主役にお仕えされておられるのに、思いはいつも天地金乃神様へのどうご奉仕するか今自分のご自身の生神金光大神大祭が、お仕えされているのに、そういう思いでずっとおられるのかなぁと頂いて、お取次ぎされている玉水教会の初代先生の思いだったかもしれませんが・・・。 

 その時、それでは親神様はどういう思いでおられるのかなぁと思っただけで、お伺いではないのですがそう思っただけで、気持ちがぞっと出てまいりまして、

 「もうかわいい、かわいいてたまらん」という気持ちがどっとわいてきて、それは言葉でなくて感情が、その時なぜか一瞬言葉と言うより、なにかその感情がわいてきまして、浮かび上がってきて、神様の事をいつもいつもどうお仕えするかその時一瞬なにかその関係がわかった気がしましたね。 

それで生神金光大神さまを通してとお願いすると、即おかげにつながっていくのだなと上手に表現できませんが、そんな思いがしました。

 その後から、次々と、新しい人が参拝され、いろんな人が先生これも難しいところおかげを頂きました。あぁそうかそしたらあんたどうするのか?と、あんた親神様にどんなお仕えをするのかと問うと、キョトンとしてもうひとつわからない顔しておられた。

 この教会は、まだまだおかげを頂いて親神様をお仕えする体質にようまだそこまで行っていない教会なんだなぁと思わして頂きました。

 天地金乃神大祭この教会創立百十年のご大祭を通してですね。私の一番感じたのはですね、この親神様からのバトンタッチではなしに、「あなた私に任せなさい」とご命令されて言われた親神様への私からのバトンタッチであって、一年一カ月経ってあれは違っておりましたと言ったら皆さんに申し訳ないけれど、神様からの願い、おかげを受けることは、正しかったと思いますが、もう一ついよいよのところは、「この私に任せなさい もう心配はするな もう私が心配してあげましょう」とそこまで言って下さるお出ましの親神様にご信心させて頂きながら、その在り方をちょっと出来ておらんなぁと思わせて頂きました。

 これからは、何事も神様ご先導、ご主導で何事も出来ていく教会、これまでも神様出番の教会、神様お出ましの教会とこれまで何度もお話しておりましたが、いよいよは、これからは神様が先導され、ご主導でこれからの動きがどんどんこれまで以上に変わっていくのだなぁと。

 これまでよく神様の出番の教会とか神様のお出ましされる教会とかよくしょっちゅう言われているように親神様がとことんお働きされるそれが本来の教会だなぁと感じがだんだんと思わせて頂いたご大祭であります。

 これで終わらせて頂きます。ありがとうございました。


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