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2002/5/23
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HP掲示板ジャックの真相
17日夜のSADIE の掲示板書き込みから、始まった一連の掲示板ジャックの中から、次々と今のみちひろ教会の体質が浮かび上がってきた。忙しくなると、神様と人の心をキャッチする和賀心が機能停止したり、鈍くなったりしている取次者の教会長の実体、あれやこれや気づきが生まれています。その中でも、SADIE の書き込みに敢然と向かった若い30才の輔教のY子さんの心のこもった書き込み、ここにドラマが生まれています。神様のお守りとお導きの中で。次に、SADIE さんから一日の内に、3通のメールが来ました。その心境が良くわかります。最後のメールには、「お礼が言える心境になりました」とあります。そのメールを公開します。本人の了承をえて。実名を、ABC順に替えて出します。それ以外は、そのままです。登場人物は、道広の有力メンバーで、いつも親切な人ばかりです。でも、ここは一段上の信心を身につけなければ、おかげにもならないし、お役にも立てない時代です。これは、時代が要請する信心です。 信心のご参考にしたいです・・。
送信者: SADIE 件名 : 掲示板に書こうかどうか迷っています 日時 : 2002年5月22日 9:49
あの時の光景が離れられないので、思い切って、名指しで告白します。掲示板に書くのをここで押さえておきます。 バスの中の出来事です。あの時、私は何か食べるものを配りに来たA君に、苦しいから、たばこをやめるように言ってと訴ったえました。すると、B氏が、「みんなが楽しんでいるのに」と言い、C氏が笑いながらうなずいたのです。そしてA君は、私の方にこう言ったのです。「マァ、マァ」と、私を押さえたのです。 そして、心臓の発作で、息づかいの荒くなった私に、D氏は「何を興奮してるの」と言って、新しいたばこの火をつけたのです。そして、隣の席の女の人達は、Eさんと、Fさんは、私に言いました。「大丈夫?」これはおぼれている私に手を振て「大丈夫?」と言って、助けようとしないのと同じでした。 発作で苦しんでいる私は、決して大丈夫ではなかったのに、形式的な声をかけ、助けようとはしなかったのです。たばこをやめるようにとは、誰も一言も言わなかったのです。その時、Gさんが、楽しそうに、カラオケを歌っていました。 そうです。苦しんでいる私を、おぼれている私を、みんなで見殺しにしたのです。 でも、私は死にませんでした。そして、みんなは何もなかったように、難波で、堀江で、バスを降りていきました。私は、降りれなくて、石切まで乗っていきました 結局、私が死ななかったから、何もなかったから、心は傷つき、ボロボロ血まみれだったけど、みんなには、それは見えなかったのでしょう。見ようとはしなかったのでしょう。 死ななかったから、良かったじゃないかと言うことなのでしょう。 いつもは、私にとても親切な人ばかりです。だからこそ、深く傷ついたのです。
ニュースで、警察に訴えたのに、殺されるまで事件として取り扱われなくて、亡くなっ た人達のことや、日本人に追い出された亡命者の話や、見てみぬふりをして、助から なかった人達のニュースを見るたびに、思い出してしまいます。 私も、死ぬまで、気づかれなかったのでしょう。こんなふうに告白するまでは。 掲示板に出したのは、私を見殺しに人達の目に、止めたかった。本人でなくても、道広教会のご本部参拝に参加している人達に、訴えたかった。
私の生命力はすごいです。あんなに苦しんでも死ななかった。7時間の大手術を2回も切り抜けた私は、きっと、こんなことでは、倒れたくないと意地や、神様もこんなことでは死なせなかったのでしょう。心臓が持たないから、全身麻酔は無理だといわれ、でも、長い大手術だから、やっぱり無理でも仕方がないと手術室に入ってから、メスを持つ直前に、全身麻酔となって、成功率のほとんどなくなった手術を受けることになったときでさえ、恐怖は全くなかった。何かお任せしているという安心感で、全く死の恐怖感はなかった。 でも、あの時は、本気で「殺される。この人達に殺される。」と思った。 あんなに恐ろしかったことはなかった。初めての恐怖体験だった。人間が怖くなった。日本人が怖くなった。 忘れようとしていたのか、忘れていたはずだったのに、あの恐怖がニュースとともに、蘇ってきた。フラッシュバックして来た。
件名 : 「私も努力しました」日時 : 2002年5月22日 10:35 後日、その時の人達に、私は努力して、近づきました。悪い人達ではないんだと言い聞かせながら。D氏には、沢山のハムスターをあげて、ハムスターの話題に花を咲かせました。赤ちゃんのおしりふき、Bさんのお孫さんにプレゼントしました。 Eさんとは外国に一緒に行ったり、Fさんにも何か持っていったり声をかけたりしました。A君は、ご存知のように、こちらから色々甘えて、お水を運ぶのを頼んだりしていました。 G さんには、甘えて、石切駅まで、いつも送ってもらっていました。何も気にしていないことを表すために、いろいろやってみたのです。
そうです。私は、もう大丈夫なんだと思い込んでいました。でも、思い掛けない事を きっかけに、私の恐怖が蘇ったのです。亡命者達のあの泣き叫ぶ声と、アップにされ た小さな女の子の何ともいえないあの顔です。
件名 : 「お礼が言える心境になりました」日時 : 2002年5月22日 21:54 先のメールで、成功率のほとんどない手術に、恐怖感が、全くなかったということを書いてから、今度はそのことが頭に引っ掛かってきました。どうしてだったのだろう、どうして、前夜に飲まなければいけな、睡眠薬を断っても、ぐっすり寝る事が出来たし、どうして、あんなに落ち着いていたのだろう。手術前の同意書にサインするときに、姉が私に尋ねました「どう?怖い?」同意書を前にしたそれもおかしな問い掛けでしたが、私は、本当に全く怖くなかったのです。先生からも、成功率の少ないことも聞かされ、でもこのままでも生きられないということも、聞かされていたのですが。 そしてぎりぎりまで、麻酔科の先生が、私の胸を聴診器で当てながら、やっぱり雑音がある、全身麻酔は無理だと、いろんな先生が、何度もやって来て、心臓の音を聞いたのです。そして、そのつもりで臨んだ手術室で、「やっぱり、時間がかかるので、全身麻酔でなくては無理だ」と言うことになった。私はその声も、平静に聞いていて「お任せします。お願いします。有り難うございます」とお礼を言っていた。 無事に手術を終えてから、私は痛みや苦しみが全くなかったのです。1日十数時間の点滴は、確かに不便でしたが、 管が取れて、お風呂に入ってたっぷりつかったときは、思わず「有り難うございます」と、お礼を言っていました。1年間の結核病棟での入院と、その年1月、6月と、7時間ずつの手術を2回。たいへんだったんだなあと、人事のように思えるのです。手術後の翌月、私は英国の1ヶ月の旅行に出かけていました。退院したときは、体重は28,9キロ、足の筋肉が落ちて、歩けなかった私が、英国に旅だったのです。そこで、友人のローズマリーの結婚式にも出席し、たっぷり保養して、体重も増え元気になって戻ってきたのです。大手術を終えたばかり、退院したばかりの私の英国行きをOKして下さった主治医の江崎先生にも感謝しています。その時、当たり前だと思っていたことが、当たり前ではないんだということに、気づき、お風呂に入るとき、トイレに入るとき、食事をするとき、何もかも有難くて、いつも、お礼を言っていたような気がします。 今回の事は、その時のことを、思い出させるきっかけになったのかもしれません。 「今も生きています」こう言っていた昨日までの私から、今は、「今もこうして生かされています。有り難うございます。」と、お礼が言える私に変化しつつあります。
あのバスの件は、まだ恐怖として残っていますが、でも「有り難うございます。これ からも、お任せいたします」という心持ちになりました。
5人の亡命者も無事に中国を離れることになり、本当に良かったです。
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2002/5/22
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久しぶりにクラシックのコンサートへ
5月20日夜、久振りにクラシックのコンサートへ、夫婦で行った。神戸の田崎ホールで、チェコの至宝といわれる現代弦楽四重奏団の極致と称えられるヤナーチェク弦楽四重奏団とピアノ共演の古瀬安子さんのコンサートです。この数日、記憶にないくらい忙しい日々でした。食事も一日中食べることが出来なかったり、夜は台所の椅子とお結界の机にもたれて眠るような毎日でした。夫婦ともそんな激動の日々でした。20日は、突然静かな日常に戻った日で、夕方コンサートへ。 疲れた身体と、心に弦楽四重奏のスメタナの「わが生涯より」が浸み渡った。ドボルザークの「アメリカ」が、小さなホールに響いて、何か大きな魂の塊(かたまり)が呼吸しているような、それでいて疲れがどんどん取れていった。 古瀬安子さんは、学院同期の古瀬祝子さんの娘さんで、その縁でいつも、招待券を頂いて、もう3回目です。今回は、7枚頂いて、他に5名が聴きに行った。色白の美人で、華奢な感じなのに、ピアノは力強い。舞台に登場すると、華やいだ感じとピーンと張りつめるものが生まれる。帰りに、ホールの出口で安子嬢に挨拶をしたら、いつも「こみにこ」を読んでいますとニッコリ。帰りは、向こうで出会った神津の鈴木先生ご夫妻の車で夜の神戸・大阪の湾岸線を見ながら帰った。
食事も睡眠も取れない日々って、これまでなかった。例えば、19日は、朝4時半に夫婦で月例祭の準備をし、9時に車で住之江教会の大祭へ。祭員と大祭説教をし、そのまま高速で教会へ月例祭開始の15分前で、祭典後教話、100年祭ビデオを鑑賞中に、夜のある方の遷霊式の連絡をFaxし、すぐ、100年祭に学ぶという勉強会、続いて100年祭委員会の反省、その内に亡くなった教徒の告別式の祭員が帰って来、(同じ時刻で葬儀を頼まれ、他の先生に祭主を依頼)続けて、縁ある遠い親戚の方の終祭に出掛けた。10時頃、帰ってやっと食事をした。前夜は、自分が祭主で別の人の終祭をした。 100年祭委員会は、解散せずに、秋のご大祭に「100年祭」のおかげを現してこそ、100年祭の評価がでる。決まるということで、年末に解散することに。「本当に100年祭は、成功したか?」それは、秋の大祭にどう現れるかで決まる。つまり、我々がこれから決める。と言うことになった。
そんな日に、HPの掲示板ジャックが起きた。 「忙しい」と「心が神様のメッセージ」反応せず、機能停止。他の人の心の叫びにも心が聴く体制と心の準備が鈍くなって反応しません。心の余裕を亡くすということで、「忙しい」ことは、悪いことです。特に教会の先生は。心の余裕をなくすと、取次者失格になります。
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